会社員からペットトリマーへ:毛並みを整え、心を満たす生き方
会社員としての違和感と動物への想い
長年、都内の企業で会社員として働いていたAさんは、日々の業務に追われる中で、漠然とした違和感を抱えていました。安定した収入はありましたが、自身の仕事が社会にどう貢献しているのか、あるいは自分自身が心から満たされているのか、という問いに対する明確な答えが見つからなかったのです。忙しい毎日の中で、Aさんにとって唯一の癒しは、自宅で飼っている犬との触れ合いでした。
幼い頃から動物が好きだったAさんは、犬と過ごす時間の中で、彼らの無垢な愛情や、毛並みを撫でているときの温もりに、深い安らぎを感じていました。会社のデスクで資料に向き合っているときも、ふと愛犬の顔が頭をよぎり、その温かい存在が心の支えになっていたと言います。
ある日、愛犬をトリミングサロンに連れて行った際、そこで働くトリマーさんの姿を目にしたことが、Aさんのキャリアに対する考えを大きく変えるきっかけとなりました。動物と真摯に向き合い、一頭一頭の個性に合わせて丁寧に手入れをするその仕事ぶりは、Aさんにとって非常に輝いて見えたのです。それは、会社の数字やノルマに追われる自身の日常とは全く異なる世界のように感じられました。
動物への愛情を仕事にできないだろうか。トリマーという職業は、その可能性をAさんに示唆しました。安定した会社員の地位を手放すことへの不安はありましたが、同時に、心の奥底から湧き上がる「好きなことに関わって生きていきたい」という強い願望を抑えることができなくなりました。
未経験からの挑戦:学びと困難
トリマーへの転身を決意したAさんは、まず情報収集から始めました。トリマーになるためのルートはいくつかありますが、Aさんは専門的な技術と知識を体系的に学びたいと考え、数年間通う専門学校への入学を選択しました。会社を退職し、学生に戻るという大きな変化は、経済的な不安を伴いました。会社員時代の収入はなくなり、学費と生活費を捻出する必要があったため、貯金を切り崩しながら、アルバイトも両立させる日々が始まりました。
学校での学びは、想像以上に奥深く、そして体力を要するものでした。犬の体の構造や病気に関する知識、様々な犬種のカットスタイル、グルーミングテクニック、そして動物の扱い方や保定方法など、学ぶべきことは多岐に渡りました。特に技術の習得には苦労したと言います。ハサミの扱いやバリカンワークは、最初は全く思うようにいかず、モデル犬相手に何度も失敗を繰り返しました。指や腰に痛みを感じることも少なくありませんでした。
さらに、動物は人間のように言葉を話しません。それぞれの性格やその日のコンディションを見極め、彼らにストレスを与えないように作業を進めることの難しさを痛感しました。臆病な子、触られるのを嫌がる子、初めての場所で緊張している子など、様々な動物と向き合う中で、技術だけでなく、彼らの心に寄り添うコミュニケーションの重要性を学びました。
学校を卒業後、Aさんは経験を積むためにトリミングサロンに就職しました。ここでは、実践的なスキルはもちろん、お客様への対応や店舗運営の一部についても学びました。しかし、サロンワークは想像以上にハードでした。予約が詰まっている日は休憩もままならず、立ち仕事であるため体力の消耗も激しいものでした。また、お客様の期待に応えなければならないプレッシャーや、万が一動物に怪我をさせてしまった場合の責任の重さも感じ、精神的な負担も少なくありませんでした。
開業への道と、経済・生活の変化
サロンでの実務経験を積んだAさんは、さらに「自分らしいトリミング」を追求したいという想いを抱くようになり、独立・開業を目指すことを決めました。これもまた、大きな挑戦でした。物件探し、内装工事、設備の購入、動物取扱業の登録、そして最も重要な集客方法など、トリマーとしての技術以外の知識や行動が求められました。
開業資金は、これまでの貯金と金融機関からの借り入れで賄いました。会社員時代とは異なり、毎月の収入は保証されていません。集客状況によって大きく変動するため、最初のうちは経済的な不安が常に付きまといました。宣伝活動やSNSでの情報発信を積極的に行い、少しずつお客様を増やしていきました。
生活も大きく変化しました。会社員時代のように決まった時間に働き、決まった休日に休むというスタイルではなくなりました。予約状況によっては、早朝から深夜まで働く日もあれば、比較的ゆったりとした日もあります。休日は不定休となりましたが、その分、自身の裁量で自由に時間を管理できるようになったという側面もあります。
人間関係も変わりました。会社の同僚との付き合いは減りましたが、お客様である飼い主さんたちとの繋がりが深まりました。トリミングを通じて動物や飼い主さんの悩みを聞いたり、日常の出来事を共有したりする中で、以前にはなかった温かい人間関係を築くことができました。また、他のトリマーさんとの交流を通じて、技術の情報交換をしたり、経営の相談をしたりと、同じ業界の仲間との横の繋がりも大切にしています。
動物と共に歩むことで見つけた満たされた日々
トリマーとして独立し、自身のペースで働くことができるようになったAさんは、日々の仕事に大きなやりがいを感じています。お客様の大切な家族である動物たちを綺麗にし、健康維持の手助けをすることで、飼い主さんに喜んでもらえることに何よりの喜びを感じています。
もちろん、今でも困難がないわけではありません。病気や高齢の動物への対応、予期せぬトラブル、経営の継続的な課題など、常に新しい課題に直面します。しかし、それらを一つ一つ乗り越えるたびに、自身の成長を感じることができると言います。
経済的には、会社員時代のような安定した収入とは異なりますが、自身の努力が直接収入に繋がるという責任感と、やりがいを感じています。何よりも、好きな動物たちに囲まれて仕事ができること、彼らの毛並みを整え、清潔で快適な状態にすることで、動物自身が心も体も満たされているように見える瞬間に立ち会えることが、Aさんにとって最も大きな幸せです。
この事例から学べることは、好きなことへの情熱を原動力として、未知の分野へ飛び込む勇気、そして困難に直面しても諦めずに学び続け、乗り越えていく粘り強さの重要性です。また、経済的な安定だけが仕事の価値を決めるのではなく、自身の心が満たされること、他者(この場合は動物や飼い主さん)に貢献できることにも、大きな「幸せ」のカタチがあることを示しています。
会社員という一つの生き方から離れ、自身の情熱を仕事にしたAさんのように、「しあわせ」のカタチは一つではありません。自分にとって本当に大切にしたいものは何か、どんな時に心が満たされるのか、そうした問いに向き合うことが、自分らしい幸せを見つける第一歩となるのかもしれません。