会社員を辞め、木工職人の道へ:木と向き合い見つけた、自分らしい幸せのカタチ
会社員時代の違和感と、木との静かな出会い
都内のIT企業でシステムエンジニアとして働いていたAさん(40代男性)は、順調なキャリアを築いていました。しかし、日々の業務に追われる中で、漠然とした違和感を抱くようになったと言います。「数字やロジックを扱う仕事は得意でしたし、評価もされていました。でも、どれだけ成果を出しても、心から満たされる感覚が薄れていくのを感じていたのです」。ディスプレイ越しの世界ではなく、もっと手触りのある、実体のあるものづくりへの憧れが募っていった時期でした。
そんなAさんが木工と出会ったのは、週末に参加したワークショップでのことでした。一枚の木の板が、自分の手作業によって少しずつ形を変えていくプロセスに強い感動を覚えたのです。「無心でカンナをかけ、木屑の香りを吸い込む。その瞬間、頭の中の騒がしさが消え、心が静まるのを感じました。これだ、と思いました」。それは、論理的な思考が求められる日々の仕事とは全く異なる種類の集中と充実感でした。
なぜ「木工職人」という選択だったのか
ワークショップをきっかけに、Aさんは独学で木工の勉強を始めました。書籍を読んだり、小さな道具を揃えて自宅で簡単なものを作ったりするうちに、木工への情熱は確かなものになっていきました。「週末が来るのが待ちきれないほどでした。平日は仕事に追われて心ここにあらずといった状態でしたが、木工をしている時間は本当に『今』を生きている感覚があったのです」。
趣味として続けていくことも考えましたが、Aさんは次第に「これを仕事にしたい」という強い思いを抱くようになります。「単なる趣味の延長ではなく、自分の手で生み出したもので誰かに喜んでもらいたい。自然素材である木と真摯に向き合い、その声を聞きながらものを作るという生き方そのものに惹かれました。会社での評価や他者との比較ではなく、自分の内なる声に従って生きてみたいという気持ちが強くなりました」。それは、経済的な安定や社会的な地位といった従来の価値観から離れ、自身の内面の充足を求める心の変化でした。
会社を辞め、弟子入りを決意するまでの道のり
「会社を辞めて職人になる」というAさんの決断に、家族や友人からは当然ながら心配の声が上がりました。「安定した収入を捨てるなんて」「本当にそれで食べていけるのか」といった現実的な懸念は尽きませんでした。Aさん自身も、これまでの生活スタイルを手放すことへの不安は大きかったと言います。
しかし、一度芽生えた「木工職人になりたい」という思いは消えることはありませんでした。Aさんはまず、木工の基礎をしっかりと学ぶため、弟子入りできる工房を探し始めました。未経験から飛び込むことの難しさ、そして受け入れ先の少なさを痛感しながらも、諦めずに探し続けた結果、あるベテラン職人の工房に弟子入りを許されることになります。「長年、一人で黙々と木と向き合ってきた方でした。多くを語る方ではありませんでしたが、その仕事ぶりから学べることは計り知れないと感じました」。貯金を切り崩し、必要最低限の生活費を確保した上で、Aさんは会社に退職届を提出しました。それは、決して安易な選択ではなく、熟慮と覚悟の上の決断でした。
職人としての修行と独立後の苦労
弟子入り後の日々は、想像以上に厳しいものでした。朝早くから夜遅くまで、掃き掃除、道具の手入れ、材料運びといった雑務から始まり、少しずつ技術を教えてもらう毎日です。「体力的にもきつかったですし、これまで頭で考えてばかりいたのが、身体で覚えることの連続でした。自分がどれだけ何も知らなかったのかを痛感しました」。師匠からの指導は厳しく、何度も自分の不器用さに落ち込んだと言います。
数年の修行期間を経て独立したAさんを待っていたのは、また別の種類の困難でした。工房を構える場所探し、道具の購入、そして何より、どのようにして仕事を得るかという経営面での課題です。「技術だけでは食べていけない、という現実を突きつけられました。自分の作ったものをどう見てもらい、どうやって届けたらいいのか。会社員時代には経験したことのない、ゼロからイチを生み出す苦労がありました」。収入は不安定で、予想外の出費も多く、経済的な不安は常に付きまといました。また、一人での作業が多くなり、会社員時代には当たり前だった同僚との雑談や情報交換の機会が激減したことによる孤独も感じたと言います。
困難を乗り越え、見つけた自分らしい働き方
こうした困難に対し、Aさんは一つずつ丁寧に向き合っていきました。集客については、SNSを活用して自身の作品や制作過程を発信したり、地域のクラフトフェアに積極的に出展したりすることで、少しずつ認知度を高めていきました。お客様からの声や反応を直接得られるようになったことは、大きな喜びと励みになりました。
経済的な不安定さについては、オーダー家具だけでなく、ワークショップ開催や木工教室の講師なども引き受けることで、収入源の多様化を図りました。「一つのことだけに固執せず、自分の持つ木工の知識や技術を様々な形で活かすことを考え始めました」。また、孤独感については、地域の職人仲間との交流や、お客様との丁寧な対話を通じて解消していったと言います。「同じものづくりをする仲間がいること、自分の作品を通じて人との繋がりが生まれること。それは会社員時代には得られなかった、かけがえのない財産だと感じています」。
経済的・生活の変化と、現在の「幸せのカタチ」
会社員時代と比べると、Aさんの生活は大きく変わりました。収入はピーク時に比べると低い水準ですが、自分が働いた分だけ収入に繋がるという実感があり、経済的な不安はありつつも、以前のような漠然とした不満は感じていません。「必要最低限のもので丁寧に暮らすようになりました。無駄な出費が減り、お金に対する価値観も変わりました」。
時間の使い方も大きく変化しました。会社員時代は決められた時間の中で成果を出すことに追われていましたが、今は自分で一日のスケジュールを管理しています。「もちろん、納期に追われることもありますが、作業に集中できる時間と、休憩や別のことに時間を費やす時間のメリハリを自分でつけられるようになりました。早朝に作業を始めたり、疲れたら少し昼寝をしたり。自分のペースで働けることの心地よさを感じています」。
人間関係も変化しました。会社という組織の中で築かれる関係性から、お客様や地域住民、他の職人といった、より個人的で密接な繋がりへと変わっていきました。「自分の仕事を通じて人との繋がりが生まれるのが嬉しいです。お客様の要望をじっくり聞いたり、修理を頼まれた家具の背景にある物語に触れたりする中で、人との温かい交流が増えました」。
そして何より、Aさんが見つけた「幸せのカタチ」は、自分が心から打ち込める仕事に日々向き合えること、そして自然素材である木と対話し、ものづくりを通して自己を表現できることにあります。「完成した時の達成感はもちろんですが、それ以上に、木という素材と向き合い、自分の手で形を与えていくプロセスそのものが大きな喜びです。完璧でなくても、自分の意志が宿ったものが生まれる。それが今の私の幸せです」。それは、かつて感じていた違和感から解放され、自身の内面と深く繋がった状態と言えるでしょう。
この事例から学ぶこと
Aさんの事例は、安定したキャリアを手放してでも、自身の内なる声に従い、情熱を仕事にするという生き方があることを示しています。そこには、経済的な苦労や技術の壁、孤独といった多くの困難が伴いましたが、それらを一つずつ乗り越える中で、Aさんは自分にとって本当に大切な価値観や、自分らしい働き方を見つけていきました。
この事例から学べることは、幸せのカタチは一つではなく、人それぞれの価値観や経験によって多様であるということです。そして、たとえ困難に直面したとしても、それらを乗り越えるための工夫や、他者との繋がりが新たな可能性を開く鍵となることです。もしあなたが今、キャリアや生き方に漠然とした違和感を抱いているのであれば、Aさんのように自身の内なる声に耳を傾け、小さな一歩を踏み出してみることが、新しい幸せのカタチを見つけるきっかけになるかもしれません。