しあわせカタチ図鑑

スーツを脱ぎ、土に触れる生活:会社員から農家へ転身した挑戦

Tags: 農業, 地方移住, キャリアチェンジ, セカンドキャリア, 生き方

「どこか、ここではない場所で生きたい」

そんな漠然とした思いを抱きながら日々の業務に向き合っていた会社員時代。満員電車に揺られ、オフィスでパソコンと向き合う生活に、大きな不満があるわけではなかったものの、心の奥底に違和感のようなものが常にありました。ふと気づけば、同じような毎日が今後も何十年と続いていくのだろうか、という問いが頭をよぎることもありました。

そんな中、休日を利用して訪れた地方の農村で、泥にまみれながらも生き生きと働く人々の姿を見たことが、その後の人生を大きく方向転換させるきっかけとなりました。自然のリズムに合わせて働き、自分が育てたものが実を結び、それが誰かの食卓に並ぶ。そういったシンプルながら力強い営みに触れ、忘れかけていた「生きている実感」のようなものを感じたのです。

会社員から農家への転身を決意するまで

会社員として働く傍ら、農業に関する情報収集を始めました。週末を利用して農業体験に参加したり、農業法人が開催する就農セミナーに通ったりしました。インターネットで成功事例や失敗談を読み漁る中で、農業が決して楽な道ではないことを知りました。特に、経済的な不安定さや、天候に左右される厳しさは想像以上でした。

それでも、自然の中で身体を動かし、作物が育っていく様子を間近で見られる仕事への憧れは募るばかりでした。都会での生活に比べて、時間や物質的な豊かさは減るかもしれない。しかし、自分が本当に価値を置きたいものは何か、という問いに向き合った結果、農業という生き方を選択したい、という思いが固まっていきました。

家族とも十分に話し合いました。特に経済的な不安については、正直なところ完全に払拭することはできませんでした。しかし、私の真剣な思いと、農業で生計を立てるための具体的な計画(研修先、栽培品目、資金計画など)を示すことで、最終的には理解と応援を得ることができました。

会社に退職の意向を伝えた時、驚かれましたが、時間をかけて丁寧に事情を説明しました。そして、農業の基礎を学ぶために、まずは地方の農業研修施設で1年間、実践的な知識と技術を習得することにしました。

理想と現実の壁:農業のリアルな困難

研修を終え、いよいよ自分の農地を得て農業を始めた当初は、想像以上に厳しい現実が待っていました。

まず、経済的な面です。会社員時代の安定した収入とは異なり、収入は天候や市場価格に大きく左右されます。丹精込めて育てた作物が、長雨で病気になったり、台風でダメになってしまったりするリスクは常にあります。販路の確保も容易ではありません。最初は直売所や知人への販売から始めましたが、安定した収入源とするには、まとまった量の高品質な作物を継続的に出荷するルートを確立する必要がありました。

次に、肉体的な負担です。土を耕し、苗を植え、草を取り、収穫する。これらはすべて重労働です。特に夏場の暑さや冬場の寒さの中で行う作業は体に応えます。慣れない作業で腰や膝を痛めることもありました。

また、地域社会への適応も課題の一つでした。外部から来た人間として、地域の慣習や人間関係に馴染むには時間と努力が必要でした。農業は一人ではできません。地域の農家さんとの情報交換や助け合いは不可欠ですが、すぐに打ち解けるのは難しい側面もありました。

さらに、栽培に関する知識や技術は研修だけでは足りません。実際に土に触れ、作物の様子を観察し、試行錯誤を繰り返す中でしか得られない学びが多くありました。病害虫対策や肥料のタイミングなど、判断に迷うことばかりでした。

困難を乗り越えるための行動と心持ちの変化

これらの困難に対し、一つずつ、粘り強く向き合っていきました。

経済的な不安定さに対しては、栽培品目を複数持つことでリスクを分散したり、直売やインターネット販売、加工品の開発など、多様な販路を開拓したりしました。また、国の補助金制度なども積極的に活用し、資金繰りの安定に努めました。最初は収入が激減しましたが、少しずつ軌道に乗り始め、生活できるだけの収入を確保できるようになりました。会社員時代のような高収入ではありませんが、自分自身で生み出したお金で生活できることに、大きなやりがいを感じています。

肉体的な負担については、休憩をこまめにとる、無理な姿勢での作業を避ける、適切な農具を使用するなど、体のケアに気を配るようになりました。また、作業の効率化を図るために、機械の導入なども検討しました。

地域社会との関係については、地域の行事に積極的に参加したり、先輩農家さんに積極的に話しかけたりすることで、少しずつ関係を築いていきました。最初はよそ者扱いされることもありましたが、真摯な姿勢で農業に取り組む姿を見せることで、信頼を得られるようになっていきました。今では、困った時には気軽に相談できる仲間ができました。

栽培技術については、県の普及指導員の方に相談したり、他の農家さんの畑を見学させてもらったりしながら、知識を深めていきました。失敗もたくさんしましたが、その度に原因を考え、次に活かすことを繰り返しました。

これらの経験を通じて、物事が計画通りに進まないこと、困難は必ず訪れることを受け入れられるようになりました。そして、そうした状況でも諦めずに、解決策を見つけ出し、一歩ずつ前に進むことの大切さを学びました。会社員時代には得られなかった、生きる上での「しぶとさ」のようなものが身についたと感じています。

農業という生き方で見出した「しあわせのカタチ」

農業という道を選んでから、生活は大きく変わりました。朝早く起きて畑に行き、夕方には作業を終える。会社員時代のように夜遅くまで働くことはほとんどなくなりました。オンとオフの区別は曖昧になりましたが、仕事とプライベートが自然に繋がっている感覚があります。

収入は会社員時代より減りましたが、食料自給率は上がり、無駄遣いをしなくなりました。お金に依存しない、シンプルで地に足のついた生活を送れるようになったことは、精神的な安定に繋がっています。

人間関係も変化しました。都会の友人との付き合いは減りましたが、地域の人々や農家仲間との繋がりは密になりました。助け合いながら生きていくことの温かさを実感しています。

そして何より、自分が育てた作物が芽を出し、成長し、収穫できる時の喜びは、何物にも代えがたいものがあります。自然のリズムに合わせて生き、自分の手で何かを生み出すこと。それは、会社員時代には感じられなかった、根源的な「生きる喜び」です。

土に触れ、太陽の光を浴び、作物の成長を見守る日々の中で、私は自分らしい「しあわせのカタチ」を見つけました。それは、経済的な豊かさだけを追求するのではなく、自然と共生し、地域と繋がりながら、自分の手で価値を生み出すという生き方です。

この事例は、会社員以外の道を選ぶことが、必ずしも楽な道ではないことを示しています。しかし、困難を乗り越え、自分自身の力で人生を切り拓いていく過程で、これまで気づかなかった自分の強さや、本当に大切にしたい価値観が見えてくることもあるのです。多様な「しあわせのカタチ」は、自分自身と真剣に向き合い、勇気を持って一歩踏み出すことから生まれるのかもしれません。